一夜明けてゆっくり目の出発、目指すはここサンクトペテルブルグをバルト沿岸制覇を目的に 1703年 ネヴァ川に要塞都市ペトロパブロフスク建設の緒につき、フィンランド湾を睨む 後の首都であり大ロシアの礎を築いたピヨートル大帝の青銅の騎士像を眺めに行きました |
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ロマノフ王朝を確立しロシアの富国強兵を彼自身で実行・先頭に立って世界に冠たる大ロシアの基を興された大帝。ロシアの各所にはピヨートル大帝の巨大な像があった。
1679年彼は自国の建築家、技術士、医者、軍人等大勢の使節団を組織してオランダ、イギリス等を訪問した。面白いことに自分氏素性を隠して多くの見聞を広めロシアの近代化、強国化の重要性を若くして気がついていたらしい。
このサンクトペテルブルグは31歳に建設に取り掛かったそうです。
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ネヴァ川とは泥の川と言う意味らしく建設は当初から相当の困難を極めたそうです。皇帝自らが 木槌を振るい石を運び先頭に立ってこの事業を始めたそうです。泥の川に護岸を建設して要塞を
造るには多くの石を川に入れ込む作業があり数万の犠牲者が出たそうです。
丁度、東大寺を作り始める時、多くの兆散に遭って難渋した聖武天皇は困り果てて居たと言う。 反面、一介の修行僧行基には多くの人々がその後を慕い多くの事業を成功させた。
聖武天皇は行基を訪ね教えを乞うたそうです。その後、天皇自ら礎石を運び自らその先頭に立ち、
やがては、あの大伽藍、東大寺は出来たそうな。何だか似ていますね。
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この像はドイツからの輿入れしたエカテリーナ2世が造立したもの実際に見ると凄い迫力があります。
しかし当のピヨートル大帝は質素で倹約家、合理性を好み形式的、儀礼的な事柄をむしろ退けていたと言う。オランダ等への施設団に己が身分を隠し、後日この首都がオランダのアムステルダムをその範としていた事を考えると大帝はこの像を見てどのように思うだろうか?何だか日本の信長に良く似ている観があります。
エカティーナ二世もこの大帝と同じく先進西欧の文化を十二分に取り入れ富国強兵を進め大帝とは違ったフランスにその範を求めた文化を花咲かせてロマノフ王朝をより一層発展させていった事を大帝は大いにお喜びになっていると思います。
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イサク寺院へ
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